
・初めに
・仏教まとめ①~②
・仏教への疑問①~⑦
・【ネタバレ注意】ワンピースって仏教の話じゃね?
・私の言う「実存主義」はあくまでもヤスパースの実存主義ね。
サルトルのせいで誤った実存主義が広まってしまっているのが面倒臭い・・・。
・境界例の原因が分かった後、仏教に対して疑問が湧いた。
境界例は「実存に基づけられない」からトラブルが起きるのに、仏教では「解脱」、つまり「実存から脱しよう」とする、のは何故・・・?と。
それで仏教の勉強を始めた。
もし実存主義の反証的なものが得られれば、更に理解を深められるだろうし、単純に仏教に興味もあったし。
・仏教って「宗教」というより、今で言う「物理学」や「量子力学」の話なのな。
しかもおそらく人類史上最も広い視野で物事を扱っている。
結論的には結局曖昧なまま行き詰ったし、個人的には考えが少し違う(後述する。)けど、私は仏教を勉強して良かったと思っているし、皆高校生くらいになったら一度仏教を嗜んでみると良いと思う、信仰するかは別として、というか宗教じゃないと思うし。
視野が一気に広がる。
・私に仏教を教えて下さった様々な方々に感謝しております。
私は学者でも何でもない、ただのそこら辺に居る一般人なので、「この考察が間違っている可能性もある」という前提の上で読んで欲しい。
もし何処か間違っていたり無礼な事を言っていたら御免なさい。
では纏めます。
でも実際は雨は降るし、風は吹くし、お腹は空くし、ウ〇コはするし、ご飯を食べれば幸せだし、貯金が減れば不安になるし、etc・・・と、全てのものは作用・依存し合い、移ろい行く。(諸行無常)(この全てのものの依存関係が「縁起」)
すると逆説的に、この世に自性のあるものは何一つとして無いという事が分かる。(空(くう)、一切皆空)
これが仏教の基礎知識。
因みに、実存(色(しき))を徹底的に論破したのが龍樹(ナーガールジュナ)が書いた「中論」。
「自分」を構成しているものの内、自性の無いものは「それって本当に「自分」なの・・・?」と、頭の中で剝ぎ取って行く、肉体も精神も。
すると最後に残るのは「観」。
「観」が縁起に巻き込まれず、自分に在る状態が「観自在菩薩」、ブッダの一歩手前。
「観」や「空」自体も「空」である、という至高の段階が解脱であり、涅槃であり、ブッダ。
あくまでも俺の理解に間違いが無ければね・・・。
阿弥
どういうこと?
俺の仏教理解に間違いがあるなら聞きたいが
いや単に日本人の中に一切皆空があってそれが自己主張の弱さに結びついてそうだと思っただけ
え
大概の日本人は「一切皆空」という言葉や概念すら知らないんじゃなくて?
一切皆空だから信仰心が弱いんじゃないか?
まずその概念が一般的でないでしょ
あと信仰心の強弱は俺は問題視してないなあ
>>2でも書いたけど、仏教って宗教というより物理学や量子力学っぽいし
俺が支持している実存主義も、キリスト教への疑問から発展したものだから、「信仰心」みたいな宗教的な力学は重要視してないや
①仏教の目的について、どうも二説あるようだ。
・苦しみからの救済
・単なる真理探究
ワンピースの話?
海賊の話ではあるだろうねw
その物語の最終地点的なものが、涅槃なのかな?と
なるほど
それがひとつなぎの大秘宝ってことか
分からんけどねw
予想というか、少し引っ掛かっただけだし
まあ最後に書くからちょっと待ってて
(一応、この内、前者の「度一切苦厄」は原典には無く、鳩摩羅什と三蔵法師の漢訳だけにあり、最後の方にある「能除一切苦」を強調する為に追加されたものらしい。)
そうなんだ
修行僧の名前までは覚えてなかったわ
実は般若心経にも2.3回出演してるんだぜ!
そうなんだ
売れっ子じゃんw
「実存から脱する事の意味や価値を実存から導くのは、パラドックスが起きてしまうのでは?」と。
最初から実存に基づけられない出来損ないの糞境界例共と、涅槃が異なるのは、後者は実存経験が有るから意義を持つ点であって、すると実存に根差してしまうからやはりパラドックスが起きてしまうのでは?と。
すると実存から脱する事は一概にというか、別に正解ではないのでは?
結局実存に基づく事は必須で、となるとやはり正解はヤスパースなのでは?と。
でも実際は「観自在菩薩」に聞いた。
その事からも、「単なる真理探究」が目的だったんじゃないか?とも言われている。
となるから、「苦」についても調べてみた。
日本に於ける仏教は、サンスクリット語→漢訳→日本語訳、と翻訳を複数介しているし、そもそもサンスクリット語から漢訳する際、サンスクリット語の発音に合う漢字を当て嵌めただけだったりもするから、翻訳されたものだけで理解しようとすると誤解する恐れがある。
実際、サンスクリット語の「dukkha(ドゥッカ)」と「苦しみ」は異なり、「苦しみ」は、dukkhaの一部に過ぎないとする立場もある。
アルボムッレ・スマナサーラによると、釈迦の説くdukkhaは、現代語の「苦」とは別物である。
現代語の苦は具体的には、肉体的な苦痛と精神的な苦痛とがあるが、スマナサーラによれば仏教で説くdukkhaには、「苦しみ」「虚しい事」「不完全である事」「無常である事」の四つの意味が含まれるという。
が、結局実存から導いている事に変わりは無いようだ・・・。
「実存的境界例論」で、「生物も含めた実存自体に関しては仏教の中論の見解がおそらく正解なんだろうけど、生物として生まれた以降の見解ではおそらくヤスパースが正解だと思う。」と曖昧な説明をしていたのはこういう背景によるものである。
ヤスパースは世界の様々な思想・宗教を纏めており、その中で仏教についても纏めているが、このパラドックスに関するヤスパースの記述は無かったと思う。
また、その本を日本語訳した仏教学者による後書きで、「これこれこういう点でヤスパースの仏教理解はまだ甘い。」というような事も書かれていたが、このパラドックスが解決されるものではなかったと思う。
勉強したのが十年程前なのでハッキリとは覚えていないが。



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