1980年代に中越(小千谷市)-柏崎市-上越市にリニアモーターカーの実験線誘致構想があった。
誘致に向けた期成同盟会の名誉会長は田中角栄元首相。
真の狙いは大阪-上越-中越-新潟-庄内-青森とつなぐ「日本海縦貫新幹線」の布石とすることだった。
いま、中越-上越の鉄道高速化を巡っては県内レベルで議論が細々と続くが、建設予算はなく、国家レベルでの機運も全くないのが実情だ。(論説編集委員・原 崇)「浮上式鉄道 新潟実験線」。
こんなタイトルのパンフレットの表紙には、信濃川の上空を駆け抜けるようなリニアモーターカーのイラストが描かれ、「そだてよう国産技術 世界のために」と記されている。このパンフが作成された時期は、関係者の話を総合すると、1985年ごろ。バブル経済の好景気を目前とし、分割民営化が迫っている国鉄末期でもある。
作成したのは「浮上式鉄道試験線誘致・日本海新幹線建設期成同盟会」。
長岡市、小千谷市、柏崎市、上越市など沿線自治体の首長や議会、商工会議所・商工会代表らで構成されていた。
会長には当時の柏崎市長が就き、副会長は長岡、上越、小千谷の各市長が担っていた。そして名誉会長には田中角栄氏が据えられている。
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パンフにはリニア実験線のルート案が示されている。中越(小千谷)を起点に、 柏崎を経て、上越に至る約50キロの区間だ。
当時も今も信越線の長岡-柏崎間はきついカーブがいくつもある。
また、柏崎-直江津間は海岸や崖に接する地点があって風雪に強いとはいえない。鉄道高速化に向けた難所とされる。実験線ルート案では、小千谷から柏崎まではゆるやかなカーブで結ぶ。柏崎からは山岳地帯のトンネルに入り、頸城(くびき)平野に抜ける。
さらに頸城平野から西へ延伸すれば、糸魚川市や北陸各県、関西に至る北陸新幹線(当時は未着工)にスムーズにドッキングすることを想定した線引きだ。
パンフを保存していた国鉄OBの五十嵐豊さん(70)=新潟市江南区=は「将来、『日本海縦貫新幹線』として転用することに力点を置いていたことがうかがえる。新潟と国全体の未来を見据えた画期的な構想だった」と語る。
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さて、このパンフを見ていると、いくつかの「なぜ」が浮かぶ。一つ目は、なぜ「新潟」にリニア実験線を誘致しようとしたのか。
表向きの理由は、「技術大国ニッポン」の鉄道技術向上に資することだった。
70年代に宮崎県内にリニア実験線が建設され、無人・有人走行を重ね、技術開発を進めてきた。
だが宮崎実験線は直線ばかりの単線で、勾配がほとんどなく、距離が約7キロと短かった。リニアの実用化に向けては当時、複線による列車の擦れ違い実験、長い距離による実験、トンネル実験、雪対策といった多様な課題をクリアする必要があった。
このため「新リニア実験線」が不可欠だとの認識が国鉄や政府の技術関係者らの間で広がっていた。パンフでは、広い用地取得が比較的容易で、山があって降雪量の多い新潟は、こうした実験条件に適していると強調していた。
また、新たな実験線ができれば国内外から見学者が訪れるため、地域経済・観光振興への期待もあった。ただ、真の狙いは、日本海縦貫新幹線建設を“既成事実化”することだった。
実験線に選定されれば、国費でトンネルや橋といった基盤が一気に建設・整備される。実験終了後はその施設をそっくり新幹線に転用できる、というわけだ。
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二つ目の「なぜ」は、85年の時点で、新潟が新実験線誘致に名乗りを上げ、詳細なルート案を掲げることができたのか、である。
政府として新実験線に関する動きが本格化したのは、87年に当時の石原慎太郎運輸相が宮崎実験線の限界を指摘した上で、88年度予算に調査費を計上する方針を示して以降だ。
新潟が先手を打てたのは、事前に田中氏らを通じてこうした国鉄内部の情報をキャッチしていたからにほかならない。
ルート案を事前に用意していたことも大きかった。実質的な作成者は、田中氏にかわいがられ、知恵袋的存在だった国鉄の技術官僚、故鬼頭誠氏(44年~2014年)である。
https://news.yahoo.co.jp/articles/4a936df73a48473ba803b5661cbb0f8775249249
鬼頭氏は1983年に小千谷市内にあった国鉄信濃川工事局に着任した。任務の一つは「信濃川発電所5期工事」の進展だった。利害関係の複雑さから長年放置されてきたが、鬼頭氏はひるまずに奔走した。
そんな姿勢から田中氏に信頼され、じかに相談される機会が増えたという。
鬼頭氏の「弟子」だった五十嵐氏によると、「赤鉛筆事件」という逸話がある。
東京・目白の田中氏宅で、北陸新幹線のルートに関して地図に赤鉛筆で線を引こうとした田中氏の手を握り、「先生、そうではありません。こっちです」と鬼頭氏が引き直したという。
赤鉛筆事件の後、田中氏は側近に、こんな質問をしたという。
「鬼頭っていうのはどこの大学の出だ」
旧国鉄のエリート官僚の大半は、東大など旧帝国大学の出身者だった。ただ、鬼頭氏は、工業系の私大を出てから抜群の成績で国鉄に入った「異色の官僚」だった。
側近が「東大ではありませんね」と伝えると、田中氏は「そうだろう、そうだろう。東大出にあんな大胆なことはできん」とうれしそうに笑っていたという。
田中氏も尋常高等小学校を卒業してから苦学力行し、東大卒など高学歴のエリート政治家を押しのけるようにして首相にまで駆け上がっただけに、鬼頭氏には自分と似たハングリー精神を感じたようだ。
当時の国鉄では、しくじった時に責任を負うことを避けたいがため、やっかいな案件では「事なかれ」の対応しかしない官僚も少なくなかった。
だが、鬼頭氏は違った。
例えば、東京第一工事局の工事課長時代(79年~83年)には、難題とされていた上越・東北新幹線の上野駅から東京駅への乗り入れに向けて汗を流した。
反対派の商店主や地権者らを1軒ずつ訪ね、説得していった。「困難な仕事」になるほど執念を燃やし、やり遂げていった。
行動力と度胸、そして愛きょうのあった鬼頭氏について、田中氏の秘書だった故早坂茂三氏は生前、
「鬼頭君という男は、いつも楽しい夢を見させてくれるから、角さんも大好きだったな」と語っていた。鬼頭氏を将来は国会議員にしたいとも田中氏は考えていた、という。
鬼頭氏と親交があった元上越市長の宮越馨氏(84)は「田中先生の夢を具体化しようと、鬼頭さんは裏方として懸命に知恵を絞っていた。具体的に大きな“絵”を描ける方だった」と振り返る。
田中氏が日本列島改造論に明記し、夢見ていた日本海縦貫新幹線。その夢の実現に向けて鬼頭氏が練ったリニア実験線誘致構想。
しかし85年2月、事態は暗転する。田中氏が倒れたのだ-。
競馬場とか空港とか朱鷺メッセやらサッカー場やら野球場つなぐやつ採算度外視でも
お前が100万人子供作らなきゃ無駄やろ
北前船カルチャーの復活
すぐ上に同じこと書いてる人がいた
無理だねー
最近ちょいちょい涌いてくる角栄持ち上げモメンなんてのはほんと馬鹿なんすよ
87兆円とか防衛費増やして外国の兵器の購入は?
いや東京に許認可権限集中して全部吸い上げてきたのは間違いだったろどう考えても
30年以上前から地方都市を育てるべきだったし日本海側の交通の便も良くしとくべきだったろ
都会に投資しても三菱地所とか大地主に金配るだけの結果になったじゃないか
ジャップ衰退って角栄が表舞台から消えてからだけど
清和会の台頭と同じ
いまの傀儡よりはマシという
対中のために
この短い区間を通すだけで新幹線で直通できるようになる
将来的には大阪とも
だとするとこれ自体が羽越新幹線そのものか




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